来日ツアー直前となりましたが、アルバム『Tara Jane O’Neil』のこと、近年の自身のこと、住んでいる場所のこと、そして現在のアメリカのことについての質問をタラ・ジェイン・オニールに投げかけてみました。質問は今回のツアーにも協力していただいている安永哲郎さん(安永哲郎事務室)によるもの、日々の仕事はもちろん、スラップ・ハッピーのアンソニー・ムーアの招聘前という忙しい合間を縫って快く質問作成を引き受けていただきました。この場を借りてお礼を伝えたいと思います。どうもありがとうございました。
それでは、真摯なタラ・ジェイン・オニールの言葉に耳を傾けてみてください。きっとそこには私たちにも応用できる大きなヒントが隠されているようにも思います。また、彼女の創作姿勢や生活観のようなものも透けて見えてくるでしょう。最近「FACT」にタラが寄せていたスペシャル・ミックスを聴きながら、ごゆっくりどうぞ。
僕が2010年の秋に訪ねたあなたの家は、ポートランドの住宅街にありました。ゴールドに塗られたリビングの壁と、二階にはロフトのように天井が低いスタジオ・スペースがあってとても居心地がよかったのを覚えています。その後に引っ越したと聞きましたが、今はどんな街に住んでいますか? なぜそこに住むことに決めたのかも教えてください。
私がいま住んでいるのはロスアンジェルスでもっとも古い地域のひとつです。ダウンタウンにも近くて、この街につくられた最初のエリアだと聞きました。とても気持ちの良い、ほかにはないような場所に私たちは住んでいます。家がまばらに建つ丘のある小さな峡谷の中なので、田舎に住んでいるような気持ちにもなれます。いわゆるロスアンジェルスのイメージとはかけ離れているかもしれません。表通りには古い家がたくさん並んで、人も、鶏も、バイクも、秋にはコヨーテも、野良犬もそこら中にいて、うるさいパーティーがしょっちゅうあるような場所。変わったところです。この小さな峡谷ではいろんなことが起きていて、でも、今のところは自然の丘や森がかろうじて開発を免れて残っているので、その点ではとても気持ちよくリラックスして過ごせています(その丘の頂上の様子は、私の「Blow」や「Cali」といったビデオで見ることができます)。ただ、ラテン系や中国系の家族がたくさん住んでいる多文化な地域でしたが、最近はアメリカのほかの地域同様、白人がたくさん移住してくるようになりました。そのせいで元からの住人は家賃の高騰から引っ越しを余儀なくされています。昔、ニューヨークに住んでいたときも、ポートランドに住んでいたときも同じことが起きていましたが、ロスアンジェルスですらそうなってしまったようです。今のところ、私たちにとって暮らすにはとてもよい場所ですし、裏庭に自分のスタジオがあるので助かっていますが、この街はとにかく巨大なので将来どうなることか心配しています。
ロスアンジェルスに引っ越すことは2011年の春に決めました。自分の人生がもはや無意味に思えていたころで、ここにある山や海がとても心地よかったんです。ここにある豊かな感情や、ここに存在するさまざまに異なる人生のあり方や文化の多様さにも引きつけられました。もうツアーはほどほどにしようと思っていた時期だったので、この街だったら私にだっていつも何か新しいものが見つけられるんじゃないかと強く思いました。自分には冒険が必要でしたし、この街はいつも何か新しい物事が発見されるのを待っているように思えたんです。それにとても安く引っ越せました。そのおかげで引っ越すのは簡単でしたが、今ではもう無理かもしれません。家賃が高騰して、すべてが変わってしまいましたが、でも、私にとっては良い変化になりました。今でもポートランドに行って友達と会ったり、彼らとの演奏は続けていますが。
ロスアンジェルスの街やそこでの暮らしは、最新作『Tara Jane O’Neil』に収録された楽曲に影響を与えたと思いますか? もし与えたとしたらそれはどんな影響だったのでしょうか。
ここの環境はポートランドの風景とすべてにおいてとても異なっているので、私のソングライティングに影響を及ぼしているのは確実だと思います。ロスアンジェルスではひとりで時間を過ごすことが多いので、自然にいろいろと考える時間が増えました。ジョシュアツリーや海でもたくさんの曲をつくりましたし、私は環境の違いに敏感なので、こうした自然の美しさと力強さに囲まれながら曲を書いたことは、アルバムの曲にも作用していると思います。また、過去数年間、自分の人生において多くの変化が続いたので、新曲の背景にある意図は、過去の作品のそれとは大きく異なっています。このレコードの曲をつくったのは大統領選挙の前で、リリースは選挙のあとでしたが、それでもなぜか有効な作品になっているのが不思議です。
最新作はひとつ前のアルバム『Where Shine New Lights』と趣が大きく異なるように感じました。音響的で即興的で空間的で、さまざまな試みが積み重なってスポンテニアスにつくられたような印象のある前作に対して、今回は歌、声、ギター、メロディがまっすぐダイレクトに届いてくるようです。この変化は意識されたものですか? 何がその変化の要因だと考えますか?
私はいつもそれぞれのアルバムをつくるときに、それまでのアルバムにはなかったものをつくろうとしてきました。『Where Shine New Lights』は、ファースト・アルバム『Peregrine』以降ずっと語り続けてきたひとつの物語の最終章になった気がしていて、あのアルバムのことはとても愛しています。どこにもないサウンドや曲をつくろうと努力した決意のような作品だと言えるでしょうか。14年がんばって、やっと完成した作品でした。新しいレコードには自分に課題を与えました。それはストレートな曲を書くということです。今まで私はそういうことをしてきませんでしたが、サウンドをつくるのと同じぐらい実はストレートな曲が好きなんです。そうして1年を作曲に費やして、出来上がったのがこの作品でした。
最新作はアレンジや客演にさまざまなミュージシャンやエンジニアが関わっています。これまではどちらかというとセルフエンジニアリングまでまかなうシンガー・ソングライターというイメージがあったように思いますが、今回はゲストにどのようなスタンスでの参加を求めましたか? あなたのディレクションが多くを占めたのか、より協働的なものだったのか。声をかけた経緯と合わせて教えてもらえたらと思います。
私は今までもゲスト演奏者たちをアルバム制作に招いてきました。みんなとの演奏をその場で「せーの」で録音することも度々ありましたし、自分のスタジオでオーバーダブをするように、誰かがやってきて歌っていったり、フルートを吹いてもらったり、ギター・ソロを弾いてもらったりしたこともよくありました。シカゴのスタジオで、バンドみんなで録音した曲は、このアルバムに5曲あります。前にもそういう感じでやったことはありますが、今までとの違いは事前に、ドラムとベース、すべてのパートを入れたデモテープを彼らに送ったので、彼らも録音に際していろいろと用意してきてくれたことです。オールドスクールな録音セッションとも言えるでしょうか。スタジオに出向き、その場で一緒に演奏して、それをそのままリハーサルなしでライブ録音して、とても楽しい時間でした。そんな感じでフルセッションをする機会は今まであまりありませんでしたが、マーク・グリーンバーグがロフト・スタジオに私を招いてくれたんです。彼とは十代のときからの知り合いでしたし、ジェイムス・エルキントンも良い友達で彼もちょうどスケジュールが空いていました。ということもあって、マークからの誘いに乗ってみたんです。そしてマークがベース奏者のニック・マクリとドラマーのジェラルド・ダウドに声をかけてくれましたが、彼の選択は完璧だったと思います。
そして、録音したものを家に持ち帰って、いつもやっているように自宅スタジオでオーバーダブしました。家で残りすべての曲を録音して、コーラスを重ねてくれる人を呼び、自宅スタジオでラフミックスをしてから、それをまたロフト・スタジオに持っていって、スタジオにある素晴らしい機材を使いながらマークとミックスを完成させました。というわけで、ある意味ではいつもと同じやり方だったとも言えますし、ある意味では私にとって未知の楽しい制作方法だったとも言えるでしょう。
アルバムタイトルを自分の名前にした背景にはどのような思いがあったのですか?
シンガー・ソングライターにまつわるあれこれについては、ちょっとした遊び心もあります。私はいつもシンガー・ソングライターと呼ばれてきましたが、そのタグにしっくりきたことは今までありませんでした。でも今回、私はソングライター風の曲を書きました。となると自分の顔をジャケットに乗せない訳にはいきません。ギターを抱えて、自分の名前をタイトルにするんです。シンガー・ソングライターのイメージはいつもそんなものですが、しかし、そういったクリシェで遊んでみたかったんです。少なくともアメリカでの「シンガー・ソングライター」は、ジェンダーに結びついた呼称です。この国でもっとも嫌われているジャンルかもしれません。そして、その呼称はほとんどいつも、曲を書き、曲を演奏し、曲を歌う「女性」のために使われてきました。男性がシンガー・ソングライターと呼ばれることはほとんどありません。ジョニ・ミッチェルなどは、多分もっとも有名なシンガー・ソングライターのひとりでしょうが、彼女が優秀なプロデューサーであり、エンジニアであり、アレンジャーだったことは無視されてきました。とにかく、私はアルバムを戯れで「Tara Jane O’Neil」としました。通算8作目のアルバムでしたし、いろんなレコードを25年に渡って私はつくり続けてきたんです。だから、自分の名前を冠さない理由もないでしょう?(笑)
「今アメリカに住んで音楽をしながら生きていく」ということについて思うことを教えてください。
そうですね。多くの感覚と恐れ、そして疑問があります。あなたも知っているかもしれませんが、今のアメリカはとても混乱しています。私たちの政府は、すでに傷つき、十分な保障を受けられない弱者やコミュニティを食い物にして、自分たちの権力と経済を増大させようとする人種差別主義者や社会病質者であふれています。なんてことでしょう。そして極端な誇張や表現が横行しています。この政治の現実に自ら身を浸そうとは思いませんが、今、音楽を本当に必要としている人は多いと思っています。音楽にはヒーリングの力があります。昨年の秋、大統領選挙の2週間後でしたが、私はとても狼狽し、恐れ、悲しみに暮れていました。そんなとき、リトル・ウィングスことカイル・フィールドがオーガナイズしたフェスティバルがビッグサーであって、そこで演奏したんですが、運転中に見た美しい風景、そしてビッグサーという場所自体にあった自然の力強さ、雄大さ、マジックには随分助けられました。その週末に音楽を演奏し、他人の音楽に耳を傾けることで誰もが自分のスピリットを立て直せたようでした。それはひとりのアーティストとして、ただ自分のためだけに音楽をつくっているわけではなく、音楽家として立ち上がり、そうした経験を提供しているのだという思いを強くさせてくれた点でとても重要な経験でした。私は80年代の終わりからケンタッキーで音楽を演奏しはじめ、ライブを見に行くようになりした。その頃も困難な時代で、またルイヴィルは何をするにも難しい町でした。私たちは連れ立って気持ちを寄り添わせ、お互いを見て、実現可能な世界を夢見ました。私たちはフリークスだったりパンクスだったりしましたが、そのとき、私たちはその町の支配的文化の完全な外側にいました。でも、それはとても美しいことでした。音楽が果たすのもそれと同じです。音楽自体は悲しく、暗いものだったとしても、同じ境遇の人を結びつけて心を高揚させ、個人個人のエネルギーを、ひとつ部屋を満たすヴァイブの一部にしてくれ、そして、その部屋は本当に心の通う部屋になりました。世界の歴史と人間性を正常に保つためには、何よりも人々と音楽です。今年になって、多くのミュージシャンと音楽ファンがベネフィット・ライブやベネフィット・レコードに参加して、権力と戦い、困難な立場にいる人を助けるための組織に経済的支援をするようになったのはとても素晴らしいことでした。そのことは大きな希望です。もちろん今でも過酷な状況に違いはありませんが……。
今回のツアーはトータスのジョン・ハーンドンと一緒に来るそうですが、彼とはどのように知り合い共演することになったのでしょうか。また、彼と一緒に演奏することの楽しみや、演奏を通しての新たな発見などがあれば教えてください。
ジョンと最初に会ったのは昔のことで、いつだったかは正確には覚えていません。多分、彼がやっていたファイブ・スタイルかポスター・チルドレンを見に行ったときのことだと思います。私はまだルイヴィルに住むティーンエイジャーでした。ルイヴィルとシカゴのコミュニティは、90年代初頭にとても活発なつながりがあって、正確にいつというのは記憶にないですが、彼はずっとミュージシャンとして活動していますし、私がかねがね尊敬してきた音楽家のひとりでした。彼が数年前ロスアンジェルスに移ってから、度々会うようになって一緒に演奏することも何度かありました。アルバムのために曲を書いていると、落ち込んでしまうこともありましたが、彼とまた演奏できると思えたことは大きな励みとなりました。今年の春、トータスの東海岸ツアーでオープニングを務めないかと依頼されたとき、ジョンに私のセットから数曲、一緒にやらないか頼んでみました。そのとき彼が「いいよ」って言ってくれて私はどれほど嬉しかったか。彼とデュオで演奏したことは素晴らしい経験でした。彼が脇にいて合わせてくれることで、私は自分の楽器をより自由に弾けます。私たちは曲をやっていても、演奏家として、お互いの演奏を聴いています。インプロヴィゼーションではありませんが、毎夜、その夜ならではのフィーリングを曲がたたえたことはとても印象に残っています。私にとって、毎晩、そのような形でその夜のフィーリングを表現しながら曲を再創造できたことはとても美しいことでした。前夜のやり直しでもなく、レコードそのままでもなく、瞬間瞬間から受け取ったものを曲に託せたことは素晴らしい経験でした。
日本でのツアーは実に3年ぶりです。再会を待ちわびている人々、今回初めてあなたのライブを見るかもしれない人々にメッセージをお願いします。
ハイ! 8回も日本をツアーすることができたなんて、私はまだ信じられません。私は幸運だと思っています。いつも見にきていただいて本当にありがとう。私のもっとも特別な記憶や、最高のライブのいくつかは日本でのことでした。また会えるのを楽しみにしています。
以上、それではツアー会場でお待ちしています。11月2日(木)から11月8日(水)まで全国5都市6公演、各公演の概要についてはこちらをご覧ください。